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第1話 農場の黎明期

創業者・町村敬貴(まちむらひろたか)の肖像

一生現場で働く

当時の牧場風景

▲ 当時の牧場風景

町村農場の創業者、町村敬貴が生まれた明治15年は北海道農業の転換期であり、北国にふさわしい、牛と作物を組み合わせた新しい農業が胎動を始めた年です。

後に「牛づくりの神様」と呼ばれる敬貴は、それにふさわしく道内初の官営牧場である真駒内牧牛場の官舎で生を受けました。毎日のように畜舎で牛や馬と心を通わせた少年時代が、酪農に生涯を捧げた男の原点だったのです。

当時の看板

▲ 当時の看板


牛乳の生産を目的とする家畜の飼い方について、日本にはまだ十分なノウハウもない時代。敬貴は、何もかも独力で牛の喜ぶ環境づくりを習得しなければならず、その基礎を学ぶために札幌農学校に進学することとなりました。

その当時、出会った酪農家 宇都宮 仙太郎( 後の雪印乳業となる北海道製酪販売組合組合長 )からも大きな影響を受け、25歳の時、ついに酪農先進国であったアメリカ行を決意。艱難辛苦を乗り越えた末にたどり者いたウィスコンシン州の小さな農場。そこでひたむきに牛と向き合い続けて絶対的な自信を得るまでに要した歳月は10年でした。
大正5年、町村敬貴35歳。帰国後、石狩市樽川に拓いた牧場こそが、今に至るまで実に100年近い歴史を誇る「町村農場」の出発点だったのです。

当時の厩舎風景

▲ 当時の厩舎風景

「土づくり、草づくり、牛づくり」

敬貴がアメリカで得た酪農の奥義は、現代の酪農では当たり前のこととされていますが、当時は周囲から理解されず、おまけに最初に牧場を作った石狩市樽川も その10年後に移設した江別も元々は栄養分の少ない痩せた土地。次々と立ちはだかる壁を乗り越えながら、強い信念のもとに独自の手法で土づくり(土壌改良)に励んだ結果、数年後には、見渡す限り青々とした牧草が生えるようになり、健康な牛が育つようになったのです。
さまざまな苦難を乗り越え、あきらめる事なく努力を続け「近代酪農の礎」を築きあげた敬貴。 晩年「とにかく牛と接すると気分が爽やかになる」と語り、一介の牛飼いとして生涯現場で働き通した人生でした。

開拓者魂を存分に発揮した創業者の父町村金弥
安政6年、越前国(福井県)に生まれる。19歳の時に、具全にも募集のあった札幌農学校の第二期生として入学。当時18人の同級生の中には、新渡戸稲造・内村 鑑三・宮部金吾らが名を連ねていました。開拓使に勤めていたエドウィン・ダンに師事し、アメリカ式農業経営法を学んだ後、真駒内牧場を管理。金弥の開拓者魂は、子敬貴の人生に大きな影響を与えました。
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